昨日の続きを少々・・。
ぼくの心の先生であった河村要助さんが
闘病中の現在、先生の作品監理をされているのが
藤田正さん。
ぼくのミュージックマガジン期の先輩、名物編集者。
この時期、藤田さんには随分かわいがってもらいました。
現在はインターネット・マガジン『 BEATS21 』取締役。
大衆音楽・差別の歴史研究講演等々幅広く活躍されています。
ぼくがマガジン入社当時いつも帰りに青山アパートの
おウチにお邪魔して大好きなサルサで宴会していました。
毎日が楽しくて楽しくてしかたがない東京の日々、
宝石のような記憶であります。
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そんな彼が当時のぼくたちの師匠であった中村とうよう氏の
死に寄せた一文が以下。
同感であります。
死後ぼくの所にも「しのぶ会をやります。ご出席を』案内状が
とどきましたが、その取り巻きの無神経にとても憤慨したものでした。
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音楽評論家・中村とうよう氏の投身自殺に寄せて:
とうようさんが現役バリバリの時に奴隷の一人だった私に言っておられました。亡くなったから「いい人で残念です」みたいな言い草はやめろ、と。
「プロであるなら死んだとしてもきちんと歴史的な評価を加えなくてはならない」とも。
ならば、その御言葉は今、御自身の人生にも当てはめられるべきでしょう。すなわち、とうようさんは、御自分がたいしたことをやってこなかったことを、晩年になって(我々無数の奴隷たちが離れ去った後)、御理解されたのだと私は判断します。たった一人の業績など、ちっぽけなものだという、当たり前のことをです。そして、「とうよう先生!」と媚びへつらう方々は今も何人かはおられるとしても、人はそんな嘘っぱちの権威、かつS&Mな関係に立ってのみ生きてはいけないことにお気づきになれなかった。ずっと、権威の上に居続けようとされておられた。沖縄音楽やラテン音楽の、「俗」の中から生まれ出る素晴らしき大衆性が、実はいかに聖なる輝きを放っているのかがわからなかった。世界各地の大衆音楽の謎解きをされた人物が、まさにその音楽たちの「肝心」から一番に遠かったということを、引退後の毎日、膨大な音楽資料に囲まれながら、お一人でお考えになっておられたのだろうか、と私は思います。
2011年7月22日、藤田正 拝
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心から尊敬し、心から軽蔑したからこその一文
であると思います。
Internet Magazine
http://www.beats21.com/ar/A11072202.html
「イラストレーター 河村要助:good news」展
2009年5月20日~6月15日 松屋ギンザ「デザインギャラリー1953」
△藤田正プロデュース
今を精一杯に明日を思う。
この言葉が頭の中で響き渡る今日この頃。
井上亀夫 kameo a.k.a. prince of fool's